周囲を見渡すと、眼鏡をかけている人は結構多い。
年を重ねると尚更で、眼鏡は日々の暮らしに必要不可欠な存在とも言えるだろう。
諫早の街にも無くてはならない眼鏡がある。
江戸時代より、街の歴史を見守り続けてきた眼鏡。
正式には「眼鏡橋」という名の石橋だ。
市街地にある諫早公園に着くと、全長50メートル、どっしりとした重厚な佇まいの石橋が目に飛び込んでくる。無言の迫力を放つ巨大なこの橋は、2連アーチ式で、公園内の池に架かっている。橋そのものと、水面に写る姿を合わせ見たとき、眼鏡の形に見えることが名前の由来だ。
同じ名の橋は全国に点在するが、その多くが半円形であるのに対し、諫早の眼鏡橋は、3分の1の楕円形であることが特徴だ。そのゆるやかな曲線が、奥ゆかしさに似たおもむきを醸し出していて、たまらなく美しい。
橋は昭和33年に、日本の石橋の中で初めて国の重要文化財に指定されていて、以降、街のシンボルとして、四季折々に自然や人々と調和しながら時を刻んでいる。
春は、赤やピンクの色鮮やかなツツジや花見客に囲まれ、初夏は紫色にゆれる菖蒲、秋には紅葉と絶妙にマッチする。冬に雪の積もる日があれば、ぜひカメラを片手に足を運んでいただきたい。
そこには、うっすらと雪化粧した眼鏡橋が待っていて、思わず息をのむ。実に風情の極みである。
この橋はもともと、公園の近くを流れる本明川に架けられていた。架橋は天保10年。古くから、幾度とない水害で川に架かる橋を流されてきた当時の人たちが「水害で流されない、永遠に壊れぬ橋を」との願いを込め、2800個もの石を巧みに組合せて造り上げた。極めて頑丈にするため、1個の石の重さは大きいもので4トンもあったそうだ。その苦労は想像を絶するものであったに違いない。
悲願の橋を架けるため、力ある者は力を出し、商人は物を、農家は芋や野菜を売って資金を作り、お年寄りたちも「お役に立たんば」(役に立たねば)とわらじづくりに精を出したという。
着工から1年あまりを経て、ようやく橋が完成。渡り初めの日、喜びのあまり、何度も何度も行き来する領民の姿から「諫早の眼鏡橋いきもどいすればおもしろかなり」という数え歌も生まれた。
この橋はまさしく、諫早人の心と汗の結晶なのである。
遠い昔の人々の苦労と努力を想像しながら、眼鏡橋を渡ってみる。組み合わされた石は、ひとつひとつ表情が違い、欄干や擬宝珠のデザインは、思わず手を添えたくなるほど美しい。藁ぶき屋根が立ち並んでいた当時、この巨大な石橋を築き上げた石工たちの精巧な技術にあらためて驚かされる。さらに階段を一段一段登っていくと、あることに気がつく。上に行くほど段差が低くなるのだ。これは橋を渡るときに疲れにくくするための工夫だとか。
諫早人の心の温かさがここにも滲み出ている。
眼鏡橋は昭和32年に諫早を襲った大水害でも壊れることはなかったが、川の水を堰き止め被害を大きくさせる原因となったため、その後、諫早公園に移築された。現在は、その美しい姿を池の水面に写し出し、領民らが託した「永久不壊」の願いは、永遠に続く「恋愛のパワースポット」として引き継がれている。
眼鏡橋は、諫早人の誇りであり、歴史とロマンの橋である。
先人たちが万感の思いを込め、英知を結集して造り残した日本1の名橋を、ゆっくり渡ってみられませんか。