時は流れ、ミニ眼鏡橋の譲渡から50年。すでに定年を迎えていた伊藤さんのもとへ、模型が放置され破損しているとの連絡が入る。すぐに現地に赴くと、施設は閉園。模型は、池も水もない空き地に移され、親柱は折られ、踏み石はめくられ、擬宝珠は欠落し、昔の姿は消えていた。
苦労の末に作り上げた模型は我が子同然。涙が溢れ出た。そしてその瞬間、今ならまだ間に合う!体が動くうちに!記憶が確かなうちに!模型を故郷に戻したい!60代後半の伊藤さんの心に火がついた。
諫早に戻るとすぐに仲間を募った。チラシをつくり、朝から晩まで、里帰りへの理解と協力を呼び掛けた。少しずつ賛同の輪は広がり、市内の商工、文化関連の35団体の協力を得て「ミニ眼鏡橋里帰り委員会」を結成。以降、解体や搬送費用にあてるための寄付金集めに必死に走り回った。
東奔西走し、頭を下げる毎日。その真っ只中に、東日本大震災が発生。人々の思いが東北に寄せられる中、寄付金集めに苦しんだ。家族にも辛い思いをさせた。埼玉の解体現場でも、予想以上に橋の風化が激しく、作業が難航。橋の石と石が、本来使わないはずの接着剤で固定されているなど、予期せぬトラブルに何度もぶち当たった。
しかし、模型は江戸時代の技術を伝える貴重な文化遺産であり、諫早にあればこそ価値が高まると信じ、伊藤さんは決して諦めなかった。心強い仲間たちが支えてくれた。誰もが手弁当だった。
苦難の活動を経て、3年後の平成23年12月。解体された石材2000個がトラック2台に乗って、諫早に帰ってきた。
そして、人々の思いはついに形となり、模型は「ミニ眼鏡橋」として、眼鏡橋のすぐそばに組み立てられた。
お披露目式の日、「人生最高の仕事ばさせてもろうて、とても幸せです」そう話しながら目頭を押さえた伊藤さんの姿を、私はたぶん一生忘れない。
古来より多くの橋は、人や地域を結び、歴史や文化の要素を生み出してきた。諫早のシンボルと呼ばれている眼鏡橋も同様で、多くの物語に欠かせない存在である。
その眼鏡橋の復元は、模型なくして果たして実現しただろうか。そう考えると、小さな眼鏡橋は、名称こそミニであるが、存在価値、そそがれた人々の情熱は、計り知れないものがあるように思う。生誕から里帰りまで、ご尽力された伊藤さんや多くの方々に感謝を申し上げ、過去と未来を結んだミニ眼鏡橋の歴史が、未来永劫、諫早人の誇りとして後世に伝え続けられることを願わずにはいられない。
「ミニ眼鏡橋があると、眼鏡橋がさらに生きますね」
伊藤さんの言葉がしっくりと馴染む風景を眺めに、是非、足を運ばれてみてはいかがだろうか。
2015年12月12日 /記 数原有希子
写真 伊藤秀敏 様
ミニ眼鏡橋里帰り実行委員会 様
数原有希子